「心理学」に出会うまで①
こんにちは。
そういえば、こちらのブログを開設してから、自分自身のことをあまり書いたことがなかったように思います。痛々しく、恥ずかしい思い出ではございますが、私が心理学と出会うまでのことを、少しづつ文章にしていきたいと思います。
やや自己満足なものとなってしまいますが、私という人物がどういう人であるかを少しでも読んでくださる方にお伝えできれば、と思います。
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私は、社会に出てから現在に至るまで、3種類くらいの職を転々としています。
不安定な就業事情は、大学生時代の就職活動の失敗が原因です。
今思えば、「社会で生きていくことを舐めていた」の一言に尽きる。
大学時代、日々仲間たちとサークルを運営する立場として、様々な話をし、企画をし、太鼓を打ち、サークル活動に没頭しておりました。
それはそれは面白く、やりがいもあり、生き甲斐も感じていました。そのくらい力を込めていたこと自体は大変輝かしい思い出であり、今でも大切なものです。
しかし、その小さな小さな世界の中で、徐々に自分自身の力に過大な評価と、お門違いな慢心を抱くようになっていました。非常に厄介なことに、今思えば、それは無意識にも思い込んでいたことだったのです。
「自分は有能な人間だから、就職活動だって簡単に決まるはず。」
当然、そのような態度は無自覚にも表出していたことでしょうし、働く、ということに対してもそこまでしっかり向き合わず、ただ流れのままにエントリーをしては面接で不採用になる、ということを繰り返していたのです。
ここで、不採用が続いている、という結果にフォーカスし、自分を見直すということをができていれば、もう少し当時思い描いていたような内定をもらえたのでしょうが、中身がなく膨張した自尊心を守るため、
「社会は自分のことを全く分かっていない」
そう考えるようになっていました。今思うと、この段階でもう敗戦は確定していたのでしょうが、当時の私は誰にも相談することなく、ただただ、結果が出せない現状を受け入れず、そう思い込むようになっていたのです。
当然、思うような結果は出るわけもなく、精神的に追い詰められながら(自分で追い詰めていたに他ならないのですが)卒業前最後の正月を迎えました。
内定が一つも出ていない状況で、当然親からは「これからどうするんや」の言葉が飛んできます。それに対して私は、大変ずれた考えを持つようになってしまいました。
「会社勤めは自分に合わない。どうせ働くなら安月給でもやりたいことをやるんだ。」
こうして、自分の根本的な問題、本質的な問題に目を背けたまま、私の就職活動はどこへかわからない方向へと大きく舵を取ることになったのでした…。
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現段階で、痛すぎて苦笑しか出ませんが…(汗)
続きはまた次回に書かせていただきます。
再始
調子が乗らなくなり、2か月ほど文章を書くことから遠ざかってしまいました…。
それじゃあいかんなぁ…ということで、ボチボチ再開して来たいと思います。
調子のいいときと悪いときって、誰にでもあることだと思います。
しかしながら、こういった続けることが重要なファクターにおいて中座してしまう、
ということは、何かしらやり方がまずかったのか、私自身の何らかの要因なのか。
いずれにしても、見つめ直して、考え直して、やり直す必要がありそうです。
なんにせよ、一人で深く考え込んでもあんまりいいことはなさそうなので、
こっから再始動します。
よろしくお願いします!
自分も周囲もオッケー!
心理学的な対人援助をする場合、多くの人は、自分自身を扱いながら、活動を続ける人が多いです。
分かりやすく言うと心理技法のワークショップに行って、自分のテーマを解消するための働きかけを受けてみたり、自分に関連する事柄について学び続けながら、仕事も続ける、ということです。
そうなっていく中で、自己効力感であったりとか自己肯定感に関するテーマは、誰しもが通る道、というと言い過ぎかもしれませんが、多くの人が扱っていることであろうと思われます。(私自身も多分に漏れず、ですね。)
これは、自分のやったこと、やってきたことを受け取る、という点で非常に重要なことです。要するに、自分を認められない人が、どうやって他者を援助する過程で、クライエントを認めていけるのか、とざっくりいうとこういうことになります。
自分自身を受け取る。ここに(以前にもブログで書いたような、)ノージャッジメントを働かせる必要があります。
自分自身に正直になる、ということでしょうか。
上記のことは、非常に重要なことである。それは間違いないんですね。そうすると、例えば好きになる必要がない人に対して、好かれようと思ったり、嫌われないようにしようとしたりと、無駄なストレスを軽減し得る可能性があるからです。
しかし、これをのべつ幕なしに、いろんなことを無視して行ってしまうことには疑問を感じざるを得ません。
例えば、相手に「嫌い」と吟味もせずに口にしてしまったり
例えば、自分の力だけを強調して、ほかの人の存在や協力を忘れてしまったり
例えば、自分が思っていることと違ったら、立場も考えずに相手を批判してしまったり
自己を肯定したり、正当に評価したりする。それは大切なことです。
けど、それを証明するために、補償するために攻撃性を他者に向ける。
これは誰も得しません。(厳密にいうと、自己肯定感がある人はそんなことしません)
こういう時は「謙虚」さが忘れられていることがほとんどです。
どうしても好きになれない人がいる、思い通りに事が運ばず怒りを覚える。
これは仕方のないことで、だれでも起こりうる感情の現象です。
そこを持っていられないからむやみに吐き出すことは、自分自身の成長にも妨げになる可能性だってあります。
マイナスな感情を受け取ることと、他者を攻撃することは別問題です。
今持っている感情を自分で受け取る。
↓
周囲にとっても自分にとってもオッケーな形でそれを処理する。
そうすることが、自分にも周囲にも「謙虚」であるということじゃないでしょうか。
「謙虚」さは忘れてしまうものです。ということは、思い出すことだってできます。
私自身も気を付けようと思いました。
「前提」に気が付くということ
A「おはよう!」
B「おはよう。朝は何食べるの?」
私たちは普段、何気ない会話をしています。
しかし、ちょっとした会話の中にも、情報はたくさん詰まっています。
冒頭で唐突に出したAとBの会話です。
たったこれだけの言葉のキャッチボールを見るだけで
・AさんとBさんは朝に挨拶をする文化圏の人物である。
・Bさんにとって朝食をとるということは当たり前のことである。
割としっかりとした情報が隠れていることに気が付きますね。
そしてここから、Bさんは朝食を食べることに対し疑う余地もなさそうな香りがしてまいります。
ここに関して、Aさんが「パン」とか答えるとする。
これはBさんの朝食を食べるという前提に乗っかった形となります。
Aさんも朝食を必ず食べる人なのであれば、この会話は引っかかりなく終わっていきます。
しかし、ちょっと考えてみて下さい。
世の中には朝食を食べる習慣がない人だっているはず。
そうなってくると
A「え?朝は食べないよ。」
B「朝ごはん食べないで大丈夫なの?」
とこうなります。雲行きが怪しくなってまいりました。
Aさんは「朝は食べない」という常識
Bさんは「朝食を摂る」という常識
常識と常識が衝突するわけです。
上でお話したことは朝食のことですが、これが仕事での話や集団生活での場面などに起こると、「普通、これって言ったらこうやってするもんじゃないの!?」
とか、よくケンカになっている人がいるのをイメージすることも容易ではないでしょうか。
そういうトラブルが、最も歩み寄りがたく、こじれてしまいます。
ではそれを回避するためにはどうすればいいのか?
心理学の基本的なルールというか、原則ですが
「過去と他人は変えられない」
この原則にのっとると、
「自分の前提としているものに気が付くこと」
この一手が手っ取り早そうです。
そこに気が付くためのポイントとしては
・無批判ーノージャッジメント
が重要となってきます。
これは、自分が思ったり発言したことに対して、
良いとか悪いとかの評価をしない、判断しない
ということです。
例えば、「男たるもの涙は見せてはいけない!」
って思う場面があったなら、
「男たるもの涙は見せてはいけない!」って自分思ってるわ~
「」って思ってるわ~
とちょっと自分の気持ちと距離を置くことで、「」の中の信念や価値観を持っている自分に気が付くはず。
そんなにすぐにはうまくはできないかもしれませんが、
ちょっとずつでもやっていくと、少しだけ、何かから解放されるような
そんな感覚が味わっていただけるかと思います。
それほど前提は強力なものだということですね。
私も自分の前提に気が付いて、より楽に、いい感じになっていきたいですね!
誰のせい?何かのせい?
1800年代、フロイトが無意識を発見して以来、心理療法の世界では「現象には何か原因がある」という考えの元、心理的アプローチがなされてきました。
Aが起こるのはBがあるからだ!
これを直線的因果律といいます。
しかし近年、家族療法から発展したシステムズアプローチによる心理的アプローチが注目されているように思います。
システムズアプローチ、家族療法とは、問題を提している個人(IP)を取り巻く、周囲(家族)との人間関係に注目、介入し、その関係性(システム)を変えることにより、IPの問題が消失する、という考えのもと行われるアプローチのことです。(家族療法 - Wikipedia)
システムズアプローチは、私がよく聞くのは、不登校のお子様がいるご家庭の問題解決のために用いられることが多い印象です。
今回取り上げたいシステムズアプローチの大きな特徴は
「悪者を作らない」
ことにあります。
Aが起こるのは、特定の原因があるわけではなく、周囲との相互作用によるものだ
これを円環的因果律といいます。
つまり、問題が発生する要因は、なにか一つのできごとや人物などによるものではなく、IPの周囲の関係性が複雑に絡み合って発生していると、そう考えるわけです。
離婚の危機に瀕している家庭にいる喘息の子どもが、両親の和解によって喘息が治る、というのが有名(?)なたとえ話なのですが、特に本人に介入するわけではなく、その周囲の関係性に介入することにより、問題としているものが消失する。
これは非常に重要なことで、逆に言えば
「周囲の関係性が複雑にこじれてしまっていることで問題が発生する」
ということになります。
それら一つ一つの拗れや捻じれを解きほぐして行くことは、問題解決にとってとても重要なことのように思えます。
近年、いじめやら事件やらが発生したときに、まず原因探しが始まります。
けどそれって、言い換えてみたら悪者探しなんですよね?
確かに原因探しが必要なこともあります。しかし、それ一辺倒にしても、解決しない問題はやっぱり解決しないんですね。
絡まっている要素を解きほぐしていくこと。
そうすると、今まで見えてこなかった方法が見えてくるかもしれませんね!
人に学ぶ~師に学ぶ~
私にも、数年来、様々なことを学ばせていただいている、
先生がおります。
つい最近、先生とのお話の中で、改めて
「やっぱりこの人はすごいなぁ」
と思うことがあります。
私たち心理士は、クライエントさんとの面接の中で、
必ずと言っていいほど一番最初に「見立て」を立てます。
「見立て」とは、そのクライエントさんがどのようなニーズを持っていて、
どんな困難が伴っており、それをどう乗り越えていくのか、
ということを専門的知識や経験、印象などから見通しを立てていく。
簡単に説明するとそういったことになります。
「見立て」は面接のしんどや、展開などにより、その都度立て直していくのが
自然だし望ましいことだと個人的には思っています。
一方で、大前提として、カウンセラーもクライエントさんも、その見立てをガイドとしてプロセスをたどっていくという側面もあるため、立て直していくからと言っていい加減な見立ては行いません。
その都度、あらゆる可能性を吟味し、その時その時にベストな「見立て」を行っていく。そういうものだと頭では理解しています。
しかし、その「見立て」に足をすくわれることもあります。
人間は一度そうだと思い込んでしまえば、どうしても見方が偏ってしまったり、思考にも死角ができてしまい、時には重要な情報を見落としてしまい、セッションが違った方向へ飛んで行ってしまうことにもつながりかねません。
私が師のことを「すごいなぁ」と思う点はここにあります。
私の先生は、その「見立て」にとらわれず、またこだわることもありません。
「間違うことは人の常。間違いに気づけば、そこから訂正すればいい」
とそのことを実行し続けていらっしゃいます。
こうして文字化してしまうと何でもないようなことに思えますが、
ほとんどのこだわりは無意識に行われていることが多く、
私自身、こだわっている、という状態に気が付くのはずいぶん遅れてのことが非常に多いのが現状です。
曰く「見立てを常に疑え」
大変、柔軟性の高いことだと思います。
まだまだ勉強も修行も積み重ねていこうと思っていますが、
こういった柔軟性はぜひとも身に着け、より強化していきたいところですね!
選択は繋がっている
「人生は選択の連続だ!」とよく耳にしたり目にしたりしますが、
それをオンタイムで体感する、ということはあまり見聞きしたことがないように思います。それが、先日そのまま感じられた体験がありました!
先日まで、修験道での活動で大峯山系の弥山へ行って参りました。
まだ山岳修行者としては初心者もいいところなのですが、山道での修行はいつも何か重要な気付きが伴ってきました。今回も多分に漏れず。
まずは「自身の選択には必ず退路があるとは限らない」ということ。
山に入ってから一度目の休憩まで、普段運動をしていないこともあり、とても足が重く、もうこのままでは動くこともままならない!と強く感じた瞬間がありました。
しかし、そんな状態ではもう下山することはできません。
覚悟を決めて、ちょっとずつ、先のことは考えず、一歩一歩前へ進むしかない。
そこであきらめてしまうことは、文字通り「停止」という結果しかもたらさない、ということです。
幸い、一度目の休憩後、古いエンジンがあったまったかのように脚も体も動いてくれたので、何とか登頂することが叶いました。
そして下山時に、もう一つ大きく学んだことがありました。
下山時、10人未満の割と少人数での修行だったのですが、人によって歩くペースが違うため、気が付けば先頭と後尾の二グループ分かれることになっていました。
その中で私は後ろのグループにいたのですが、自分のペースで歩いて行った結果、途中一人での下山となりました。
すると、そこは山道。全部が全部わかりやすい道であるはずがなく、途中どうしても道と思えない道を歩いていることに不安を感じました。
山では一本道をたがえると、遭難してしまう危険が常に付きまといます。
その時に、今まで判断してきた選択が正しい選択だったのかの疑念が生まれてきたのですね。
「自分が道だと思っていたところは、実は道じゃなかったとしたら…?」
そう思いだすと、今度は道を引き戻すか、このまま前に進むのかが判断がつかなくなってきて、パニックになりかけた状態になったことを自覚しました。
幸い、人工物の目印をたどり、無事下山できましたが、一瞬だけでも「死」が頭をよぎった瞬間の恐怖感は忘れられません。
このようにパニックになると、今まで自信をもって判断してきたことなどに疑念を持ってしまい、結果動きが取れなくなる、という心理状態を体験することができました。
その時、「人生は選択の連続だ!」ということを身に染みて感じられたような、そんな気がしました。
こうして帰宅し、日常生活をまた続けられる、
そんなことにも手を合わせたくなるような、そんな修行となりました。
来年も懲りずに登頂させていただきたいなぁ、と思います。